高瀧神社
名称:高瀧神社(たかたきじんじゃ)
別名:加茂大明神(かもだいみょうじん)
別名:賀茂大神宮(かもだいじんぐう)
御祭神:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
御殿神:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
御殿神:別雷命(わけいかずちのみこと)
創建:白鳳元年(650年)
所在地:千葉県市原市高滝1
HP:高滝神社のホームページ(X(旧ツイッター))
文化財等:
社伝によれば白鳳元年8月、はじめて瓊瓊杵尊を祀って「高滝神」と称した。白鳳2年、上総国海上郡下地村と呼ばれていたこの地に、山背国の両加茂社を勧請したといい、これによって下地村は加茂村と名を改めたという
『日本三代実録』によれば、貞観10年(869年)9月17日に上総国の「高滝神」に従五位下の神階が与えられた。
平安時代末期の承安年間(1171年 – 1175年)に加茂社を勧請し、加茂大明神を称した。これにより当時の下地村は「加茂村」と名を改めたとされる。戦国期の天文3年(1534年)に里見氏が上総国大多喜城に進出すると、この神社は祈願所とされ、社領として27石が認められた[2]。天正19年(1591年)に徳川家康が関東に入部すると、社領10石を安堵された。
江戸時代にこの神社は「加茂大明神」「賀茂大神宮」を称し、その周辺が「加茂村」と呼ばれていた。この神社は徳川幕府から10石の社領を安堵され、近隣53か村を氏子とする大きな神社で、春と秋と2度ある祭礼のうち、秋の祭礼では御輿が養老川岸まで渡御し、興行も行われて市原郡内外から参詣客を集める賑わいを見せたという。安産や、幼児の生育が願われた。
明治元年、当地は鶴舞藩領となった。明治2年(1869年)に鶴舞藩はこの神社を藩社とした。明治4年(1871年)、廃藩置県により鶴舞藩が廃され、鶴舞県となったあとも大参事らによる修祀は行われたという、しかし同年末に鶴舞県も廃され、社格は郷社となった。1880年(明治13年)12月、千葉県によって県社に位置づけられる。
※Wikipediaより転載
※詳しくはWikipedia及び高滝神社のホームページをご覧下さい。
※Wikipedia(高滝神社)
・由緒
・一の鳥居
・社標石
・参道
・子持石(子授石)
・境内社(加茂護国神社)
・参道と二の鳥居に続く石段
・参集殿(社務所新館)
・二の鳥居
・御手水舎
・社務所
・拝殿へ続く石段と拝殿
・拝殿前石灯籠と狛犬
・拝殿
・拝殿と本殿
・神楽殿
・境内社(琴平神社、白鳥神社、道祖神、猿田彦神社、竃大神、疱瘡神社、稲荷神社、八坂神社、神明宮、松尾神社)
・西参道石段
・西参道
・西参道鳥居
・西参道側石灯籠
・西参道側狛犬
・底なし袋
・絵馬掛
・納札所
・おみくじ掛
・高滝神社碑
・御神木「椰」
・拝殿脇池
・社務所前各種碑
・御朱印